医療とは何かを考え直す時が来ているのかも( ゚Д゚)?
2025年6月15日 日曜日
先日、吉祥寺の中堅の病院が閉院した
赤字の経営と建て直しの困難と言っていた
公立病院も悲鳴をあげているらしい
そりゃあ国家予算の半分が医療費の国なんて
稀だから、医療の在り方を検討するのは
必要なことなのだろう
日本にいると当たり前の医療が
外国から見ると「手厚い」ことが少なくない
しかも海外では個人負担で行われるような
治療も日本では公費で補われている
日本の場合は明らかに病院に通いすぎだし
病院に行っておけば安心であるとか
何とかなるとかいう「お守り」信仰が
強いようにも思う
様子を観るとか、老化現象なのに
アンチエイジングとか
(これも保険診療になっている)
応急処置で済むような軽傷に至るまで
「病院に行かなきゃ」になっている
高次医療機関であるはずの大学病院には
軽症の患者があふれている(笑)
タクシー代わりのような救急申請も
後を絶たない
年齢や資産で人間の命を区別する気はないが
あまりにも不自然な延命に関しては
少し抵抗がある
医療の目線に立てば
どんな命も救う
それが使命だから
しかし世論が進化?して植物状態の患者に
呼吸器を装着したり
回復の見込みのない高齢患者の
胃婁がほとんどなくなってはいる
残念なのは医療と福祉とは
必ずしも連携していないこと
(もともと医療費を軽減するために作った
介護保険も
予想以上の利用率でサービスの質の低下や
介護保険制度そのものの危機を招いている)
救命したものの
重い後遺症を残して退院することになる
助かった命は受け皿のない福祉の前で
長い行列を作ることになる
お金第一主義の社会が
コストパフォーマンスを掲げた
「高齢者」は生産性がないから価値がない
という判断である
そしてその価値基準は「金額」である
貨幣経済が続く限りはこの考え方が続く
(いずれはAIの進化も相まって
金額ではなく「評価」の時代に変化していく
ような気がしているが)(笑)
当初の医療には年寄りで金儲けをしようなんて
思っていなかったのかもしれないが
儲かることに気づいたら芋ずる式に
政治の票田になっていった
早期発見、早期治療の名のもとに
「まずは病院へ」が普通になっていった
ここ40年、医学は進歩したようで
しかし肝心なところは低迷している
例えば世界中の論文ではがんの治療をした場合と
しない場合での生存率は変わらないという
要するに現在の医療では治療は必ずしも延命に
つながっていないということである
健診を受ければ何か見つかり
病院に行けば病名が付き治療が始まる
そして生涯、薬を山ほど処方される
その処方された薬で体調が悪くなり
意識障害を起こして交通事故を起こす
年よりは票田の駒でもないし
まして金儲けの道具なんかではない
若くから一生懸命、自分と命家族のために
働いてきた
社会のために、そして国の発展のためにと
生きてきた
そんな人生の晩秋に
ほんのささやかな贅沢が許されても
罰は当たらないのではないか・・・と思う
しかしその贅沢が、効果があるのか
ないのかもわからないような医療に
しがみつくことではないように思う
自分に与えられた(神様から配布された)
遺伝子に従って
自然の摂理の中で運命に沿った生き方が
一番苦しみが少ないようにも思う
医療を受けないのではなく
最小限の手当てを受けながら
自分という名の命の花を命の限り咲かせて
散っていく・・・そんな生き方もある
何十年もかかって刷り込まれた習慣や生き方は
容易には翻らない
お金にすべてを換算して人の命に当てはめる
残念ながら今の社会はそのように動いている
今一度
医療とは何か
立ち止まって考えるときが来ているような気がする
春夏秋冬
花鳥風月
自然の中で私たちは生かされている



