日本人はなぜ無宗教なのか
2025年2月7日 金曜日
クリスマスにはお祝いをし
正月は神社に初詣し
お寺で葬式をする
一神教から見れば実に不思議な光景である
もんちっちも自らを無宗教と言っているが
実は多宗教なのではないか?(笑)
結婚をする
埋葬をする
規律を守る
これらはすべて宗教的な発想である
日本の道徳観や倫理観は
突発的に生まれたものではなく
数千年前からの仏教やキリスト教の影響を
受けているところも少なくない
外国から見れば日本は明らかに
仏教の国である
そして「神などいない」というのは
まさしく釈迦の教えである
日本はたまには山の神
川には川の神がいて
米にも米の神がいる
アミニズムとは
生物無生物問わず
すべてのものには「霊」が宿るという考え方
であるが
それは宗教の最小単位ともとれる
※阿満利麿(あまとしまろ)1939年生まれ
日本の宗教学者、明治学院大学名誉教授
専攻は宗教学、日本思想史
京都生まれで生家は西本願寺の末寺であった
1962年京都大学教育学部卒業
(Wikipediaより引用)
日本人は本当は無宗教ではなく
「創唱(そうしょう)宗教」と比較している
からではないかと彼は言う
創唱宗教とは教組や教義がある宗教のこと
(イスラムやキリストや仏教など)
これに対しそれらがない宗教は「自然宗教」と
彼はとらえている
(神教やヒンズー教)
またアミニズムなどの自然を信仰する宗教
とも異なる
つまり自然宗教はあくまでも自然発生して
今に受け継がれているものということらしい
多くの無神論者は
自分が創唱宗教と思われるのが嫌で
自分は無宗教だと
口外していることが少なくない
また新興宗教への不審なイメージが
あるのかもしれない
日本人は初詣やお盆やお彼岸など
日常生活の中で心の永安を維持してきた
だからあえて自然宗教を唱える必要もなかった
本来の仏教はお葬式をしない
しかし仏教が日本に伝わる途中で中国の儒教が
混じった
儒教は五常(仁・義・礼・智・信)を唱える
創唱宗教である
この「孝」の教えが先祖供養につながった
儒教の考えはのちに神道にも影響を与え
日本の武家にも浸透していった
明治維新ころには諸外国の手前
政府は神道は宗教ではないとした
そして日本中の八百万の神を統廃合した
こうして宗教が時代とともに形を変え
日本人の思想から少しずつかけ離れていき
無宗教者と名乗る人を増やしていったらしい
つまり日本人は無宗教ではなかった
ということになる
お参りや初詣に行ったり
「いただきます」と食事の時に
手を合わせている人は自然宗教を信じている
以前も書いたが本来の仏教には
「あの世」はないし前世もない
したがって埋葬などしない
葬式などの儀式は形を変えた
日本由来の独特の仏教である
宗教は弱い人間や特別な人が信じるものだと
思っている人も多いが
生きていれば困難な出来事に遭遇することもある
例えば「死」
死んだらどうなるのかって考えたりする
遺体は土にかえるだけのことかもしれないが
そうやって死を意味づけているだけで
それはすでに宗教である
だから無宗教でありうることなどありえない
お墓を持たないことも
海洋葬にすることも
その思想はすでに宗教なのである
生き方を見つけるための宗教であったりする
もし宗教を持っていたとしても
一つの考えにとらわれることなく
教義や団体に疑問を持つのは信仰が深いほど
生じる疑問かもしれない
人間はそういう生き物だ
何が言いたいかって?
教義や教組がいる創唱宗教を信じようと
それ以外の自然宗教を信じようと
アミニズムであろうと
心に何も持たない人よりはいい
人は何も信じずに生きている人などいない
自分を信じるか
家族を信じるか
仲間を信じるか
誰かを信じて生きている
”宗教とは
人間の力や自然の力を超えた存在への信仰
を主体とする思想や観念の体系
またその体系にもとづく教義、行事、儀礼
施設、組織を備えた社会集団のこと
信仰とは
キリスト教神学的には
神の存在と掲示を真実として信じること
神や仏を信じること
そしてその教えをよりどころとすること
人やものごとを信用、信頼すること”
※Wikipediaより引用
そう、人が人を信じてもいいわけだ(*^^)v
宗教がなくとも
人は信仰することはできる
人を信じ生きている人は
きっと心のよりどころを持っている
そんな当たり前のことを
今日は一日かけて学んだ(笑)
しばらく続く寒波
また来るかもしれないけど
いつまでも冬は続かない
冬の後には必ず・・・春が来る
(笑) 一日一回笑おう(*'▽')


