生きる・命

2024年2月15日 木曜日



ものすごい強風


地面のすべてのものを巻き上げる


気圧が下がってきているのか


頭が痛い





あるブロガーさんへのお返事を
転載します





”そうですね。


もちろんみんな善き人たちです
犯罪を犯してきたわけでもなく
これまで一生懸命働いて
将来についても考えて
老後の財産もしっかりと
築いてきた人たちです


それが本来の普通の生活のはずが
それさえできなかった
(私のような)人間が
世の中の大半を占めているという
事実があります


誰かが教えてくれたら
きっとそうしていたでしょう
気づかないから、頭が悪いから
悲惨な老後があるわけですよね


偏見はありませんが)
生活保護に関しても
(弱者であることは別の話として)
普通に生きてきたなら
老後も困ることはないほどの収入を
過去に得てきた人もたくさんいます
それを残せなかった(享楽に浪費した)
人もいます、確かに


ただ教育をしっかり受けていれば
そうそうバカなことは
できないものです


「こうすれば」「こうなる」と
考えることができる
「教育」を受けていれば
人生が変わっていたと思う人が
ほとんどではないでしょうか


愚かな人を見下すことは簡単です
でもそれが
人としていいことなのかは疑問です





人は社会で暮らしている
いい時だけ「社会」の責任にするのではなく
よくない時にこそ
社会の「責任」という考えが及ばない限り
この国には精神的成長はないように思います


日本には世界に類を見ないような優れた
文化や伝統はありますが
いいものはそのまま継承し
よくないものは
どんどん改正していいと思うのです


犯罪が増えるのは、貧しいから
しかし、お金だけじゃなく
誰かに愛され
大切にされているという思いがあれば
反社会的な行動はできないものです


日本は(アメリカみたいに)
自己責任と謳って
ほったらかしにする社会ではありません
道端で倒れている人がいれば
誰かが声をかけ救急車を呼ぶでしょう


人口は増やせばいいというものでもなく
いまの日本のように
高齢者は非生産人口として
社会のお荷物になる
今の日本の姿を諸外国は観察している
この先どうなるのかと


国を大きくするのは
お金だけで言えば生産年齢人口の増加
そして一人一人が「賢く」なり
生きるための「知恵」を
身に着けていくことだと思うのです





(教育は福沢諭吉がeducationを
 「教育」と訳した)
教え育てるという考え方から
社会の中で啓発を共有しながら育んでいく
そんな「教育」がなされない限り
日本は永遠に分断のまま
沈んでいくような気がします


人間は本来の「自然」に近い生き方が
一番幸せではないかと思うのです
ある程度の医療はすべての人に
保障される
それは不可欠なことです
ただ算術のためだけに
医療があってはいけない


個々の精神性の向上に期待できない限り
日本はよくはならないように思います


終戦後、一気に向上する機会があったのに
アメリカの
植民地化に取り込まれてしまったせいで
成長の機会を失いました


今度、どんな変化がが
日本人の精神性を一気に高める
機会が来るのかなって
思います


社会の第一線で活躍できない「弱者」は
触れてはいけないものとして
蓋をされ、片隅に追いやられます


こうしてお金のある人中心の
社会が出来上がり
お金でほとんどの世の中のものが手に入る


ただし唯一手に入らないものがある
いうまでもなく、健康で生きてく「命」
それに気づくのは
失いそうなとき、あるいは失ったとき
その大元で働いている(いた)人には
その大切さが身に染みているから
命に貴賤はないと思うのです


私のように
長く生きていたくはない人もいて
自虐的な?生活を送る人も稀にいるけれど
それは
社会に希望が持てないからじゃないかな?


若い時は人生が
永遠のように錯覚していたけれど
振り返れば、あっという間
自分が何して生きてきたんだろうって
苦笑する





ほんの少しの優しさと
ほんの少しの思いやりがあれば
お互いに幸せになれるのに


新たなパンデミックがまた起きますね
そのとき
世界が一つになれるのかもしれない
大地震が来て貧富の差なく
助け合わなければ生きていけない
事態が生じるのかもしれない


利己主義を個人主義と勘違いしている人
自分さえよければいい人が
日々増えていく悲しい日常


犯罪者含め
弱きものを救えない社会は
いつか滅びる


そんな日が来ないことを
何もできない山姥は
毎日祈っています


私に関しては社会が悪いのではなく
私は自分が悪かったと
反省しているだけです


私のように反省し気づいた人たちが
きっと社会を善くしていくと信じています


大元は、教育であると
私は信じています
そして、小さな社会(家庭)から始まる
「愛」がすべての始まりだと
信じています”





医療者は貴賤を問わず
全ての人の命を平等に救う


ただし時として
過剰な医療を望む人へも
その期待に応えるときもある


例えば、石原裕次郎のときは
肝細胞癌?にあらゆる医療が
駆使された
5000万くらいかかったらしいが
半年の延命で終わったような記憶がある
(誤まりだったらごめんなさい)


命はお金で買えなかった


どんな金持ちも
路上生活者も
命は平等に等しい


そんな当たり前のことを
現役の同業のブロガーさんが
思い出させてくれた







-命-  宮越由貴奈(小四)


命はとても大切だ
人間が生きていくための電池みたいだ


でも電池はいつか切れる
命もいつかはなくなる


電池はすぐにとりかえられるけど
命はそう簡単にはとりかえられない


何年も何年も
月日がたってやっと
神様からあたえられるものだ


命がないと人間は生きられない


でも
「命なんかいらない。」
と言って
命をむだにする人もいる


まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる


命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生きよう




※亡くなった少女へお母さんが書いた手紙



由貴奈、お父さんとお母さんを選んで
生まれてきてくれてありがとう。


人は皆それぞれ、使命や目的を持って
生まれて来るんだって。
特に由貴奈のように幼くして亡くなる子は
両親の成長を早めるために
短い人生を承知で生まれてくるのだと
いうことを聞きました。
なるほど、これは経験したものでなければ
味わえない大変な心の葛藤です。


我が子の大変な病気と闘う姿を見せられ
そして亡くなってしまう
これほどの悲しみ苦しみはないぞと
思いました。
でも由貴奈はお母さんに
いえ多くの人たちにいろいろな
すばらしいことを残してくれました。
なんてちよっと大げさでしょうか。
親ばかのお母さんです。





やっとこんなかっこいいこと
言えるようになったけど
由貴奈を失ってからは
後悔ばかりしていました。


治療の度に先生が治療方法の最終段階では
親に選択させていたのです。
あの時本当にあれで良かったのかから始まり
由貴奈にとった態度はあれで良かったのか
病院にいるときもっと一緒にいてあげれば
良かったとかきりがないのです。
そんなことを思いながら
車で一人になると涙が止まらなくて・・・。


でもね、考えたら人の人生と比べたら
長さは短かったけど
普通の一生を濃縮したかなって
思えるんです。
あれだけ多くの人と知り合って
多くのことを経験し
命の尊さを
もうんと身近に感じていただろうし
それでまるでその勉強の成果みたいに
あの「命」という詩を作っちゃうし
ほんとうによくやったね
よく頑張ったね
由貴奈いろいろありがとう。


最後に病気から守ってあげられなくて
本当に・ご・め・ん。 おかあさんより


※Webde見つけたブロブより





生きたくても生きられない人もいる
救いたくても救えない命もある


命は貴賤なく万人に平等である♡

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