国境・国籍、赤い靴

2012年4月1日
※過去記事より


国境・国籍


私が小学生のころ
社会の先生が言っていた
日本は戦前・戦中に
韓国に意地悪をしてきたと
でも私の周りにはたくさんの朝鮮人がいた
小学校の一番仲のよかった男子は
二人とも朝鮮人だった


貧乏学生だった頃
「ご飯食べにおいで」って
温かい手を差し伸べてくれたのは
韓国人の友人の両親だった
成人して付き合った二番目の彼は
朝鮮人だった


私の人との交際に国境はない
韓国人が嫌うから日本人も嫌うのか
日本人が嫌うから朝鮮人も嫌うのか
長い歴史が関係しているのかもしれない
統治下のことや戦争中のことを言われても
どうやって償えばいいのかわからない
日本人と朝鮮人が
いがみ合っているのは何とも悲しい


いつになったら許し合えるのだろう
そしていつになったら罵倒しあう言葉が
消えるのだろう
お互い協力し合えば共通の利益も
得られるはずなのに
お互いいいところを否定し合っている


若い世代間の交流も増えていくだろうし
いつの日か
日本と朝鮮のわだかまりが消えて
助け合える日がきっと来ると信じている



 韓国釜山の市場(23歳のとき訪韓)




2012年5月28日


横浜・山下公園、外人墓地


Dejavu(デジャヴ)でしょうか
初めて横浜の街を歩いたとき
以前にここを歩いたような気がしました
山下公園の船には私が乗っていたような
外人墓地(外国人墓地)には
何度もお花を手向けに来たような
不思議な感覚にとらわれました
それ以来
横浜は私の心のふるさとです


いつの日か生まれ変わって
赤い靴を履いて
どこかの外国人に
連れられて行くのかもしれません
オーロラの見える遠くて寒いところへ



 山下公園で(18歳ころ)


※2023年追記
もんちっちは、赤い靴の歌の歌詞を
「い~じんさんに
連れられてい~っちゃった」っていうのを
「いい爺さんに
連れられて行っちゃった~」と歌っていました。
いい爺さんに連れられて行ったなら
きっと幸せだと(笑)


この歌詞に登場する女の子の名は
「きみ」ちゃんという実在の人物。
明治35年7月15日
現在の静岡県清水市で生まれました。
母の名は「岩崎かよ」未婚の母でした。
私生児として生まれ、北海道の函館へ。
母のかよは函館で出会った鈴木志郎と
留寿都村への入植をしました。
きみちゃんは3才のとき
当時函館の教会で宣教していたアメリカ人
ヒュエット夫妻の養女となりました。
夫妻が帰国する事になった時
きみちゃんは結核を発病し
麻布十番の鳥居坂教会の孤児院に
預けられました。
3年間の闘病生活の末
9才で短い生涯を終えました。


母かよは入植に失敗
鈴木志郎との間に
そのという名前の女の子がいました。
その後、一家は札幌に移りました。
鈴木志郎は新聞社に入社し
その同僚に野口雨情がいました。
両家族は親しくなり、一軒の家で
共同生活をしました。
そのとき、かよの君への思いを知り
詩に綴りました。
その詩に本居長世が曲をつけて
完成したのが、童謡『赤い靴』です。
母親のかよは,そんな娘の死も
知らないまま、昭和23年
「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して
64才で他界しました。
昭和48年11月の新聞の夕刊に掲載された
このニュースに
「まだ会った事も無い私の姉です」と
投稿があり、当時北海道テレビ記者だった
菊池寛さんが5年かけて
女の子が実在していたことをつきとめました。
パティオ十番の銅像は
このような不幸を繰り返さないため
十番商店街の人たちによって
平成元年1月28日に作られました。
きみちゃんのお墓は青山霊園のなかにある
鳥居坂教会の共同墓地にあります。
墓標には、佐野きみと刻まれています。
(佐野はきみちゃんの実父の姓)
※横浜の歴史より


 横浜外国人墓地(フリー画像より)


 北海道留寿都村の「母思像」



赤い靴には悲しい歴史があった♡

もんちっちの貧乏な子育て

2012年3月10日
※過去記事より


貧乏な子育て


今日はもんちっちの
ちょっと風変わりな?子育てのお話
(かなり身勝手で母親失格)


もんんちっちは若かりし頃に
アメリカ人と結婚しました
でもうまくいかずに数年で離婚
おなかの中には女の子がいたまま
帰国しました


その女の子が3歳の時に
2番目のだんなさんと知り合い
結婚しました
そして2人の子どもが生まれました
しばらくは平凡な幸せが続きました


しかし
やっぱりうまくいきませんでした
もんちっちはきっとわがままで
ダメな人間だったのだと反省しました


二人の誠実な男性を傷つけ
彼らの家族をも悲しませ
なんてたいそうなことをしたのかと
10年間 反省の日々を送りました
その10年間で
これまでいいかげんで中途半端に
放り投げてきた人生を反省しました
そして
子どもたちには大変貧乏で
さびしい生活を
強いてしまうことになりました


子どもを大きくするには
食べさせなければなりません
それには
お金を稼がなくてはなりません


結婚する前に
途中で放り出してしまった学業を
今度はマイナスから
始めることになりました
病院で看護助手をしながら
わずかなお給料と奨学金で
学校に通いました
(奨学金は538万円を
10年かかって全額返済済み)


小さいころから
わけあって病院で育ったような環境で
(父が病院職員だったので)
医療が一番身近な仕事でした
(結婚前は不動産の営業とか
自動車の営業をしました
他にアルバイトは何でもしました)


自転車の前と後ろに子どもを乗せて
保育園と職場と学校と家との往復
そんな毎日が6年続きました


保健師の資格を得てもまだ足りなくて
(こんな勉強不足のまま就職しては
申し訳ないと思い)
通信で大学の学士を取りました


言うまでもなく貧乏でしたから
子どもたちの洋服は
知り合いの方たちがくれた
おさがりだったり
旅行になんて
連れて行ってあげることは
できませんでした


行ったのは多摩動物園とよみうりランド
そして横浜ドリームランドと
サンシャイン水族館など近場
一度だけ私の同級生のトモちゃんが
連れて行ってくれた箱根旅行
それでも子ども達
一度も文句を言わなかったんです
当然子どもを大学になど
入れてあげるお金などありません


もんちっちは中学までの義務教育までは
親の義務だと思っています
でも高校からは自分自身の意思で
進学すべきと思っています
だから高校へ行きたい子は
奨学金を自分で借りて
行ってもらいました
(途中で別の方向に行っちゃった
子もいますが)
※これは「お祭りカレー」のヒ素を発見した
中学生の両親の子育てから学びました


お姉ちゃんは大学をあきらめて
大学病院の看護学校へ
弟は自動車大学校へ行きました
お姉ちゃんはすごいパワーがあるので
社会福祉協会から借りた奨学金も
もう返し終わりました
弟もきっちりと奨学金を自分のお給料で
返しています


子どもたちはきっと
たくさん寂しくひもじい思いを
してきたのだと思います
でも文句も言わず
しっかりと自分の足で立って
自分の頭で考えて、今を生きています
社会人としてはもんちっち同様
まだまだ未熟者ですが
自分とは何か 生きるとは何か
そんなことを自分なりの答えを
模索しながら生きている子どもたちは
もんちっちの誇りです


貧乏でも歪まずに
まっすぐに生きてくれている
大事な大事な
もんちっちの宝物です


※2023年追記
デジタル化したネガや写真を見返して
どれだけの人に 迷惑をかけ
そしてお世話になったのかを感じています
本当に感謝の気持ちしかありません。
私一人で頑張ってきたのではなく
子どもたちも頑張った
そして何よりも
支えてくれた人がいたから生きてこれました
お礼も言えず静かに消えていく
わがままなもんちっちを
どうかお許しください。
本当にありがとうございました。
※遺書ではありません(笑)



多摩動物園にて


近くの公園で




子どもたち
本当にありがとう♡

夫婦ふたりぼっち

暑い日が続きます。
涼をとりながら
お体大切にお過ごしください。


2012年6月12日
※過去記事より


夫婦ふたりぼっち


Mさんは、奥さんと二人暮らし
子どもはいない
30年間夫婦共働きでコツコツと働いてきた
着るものも着ないで
食べるものも食べないで
働いてきた
これから先ゆっくりと温泉へでも行こうかと
思っていた矢先
奥さんが認知症になった
ある日、突然に


夜も寝ない
昼間は何もしない
夫が出かけようとすると
どこへ行くのかと外出を阻む
自分の思い通りにならないと暴れる
夜な夜な近所を徘徊し呼び鈴を鳴らす


そんなMさんが近所の人に
連れられてやってきた
ぼろぼろだった
「大変でしたね・・・」と声をかけると
80歳になる大男が
セキを切ったように泣き出した
優しかった妻が3か月前から
徐々に豹変してきたという
この1か月はケンカも絶えず
殺意さえ抱き始めて
限界を感じていたという
体重も13キロ減ってしまった
どうしたらいいか
そんな相談だった


まずは病院で治療を受けましょうと話し
受診の段取りをした
病院も事情を考慮し入院になった
今も家に帰りたいと妻から電話が来るそうだが
一緒には暮らせないことをMさんは感じている
奥さんの預金はおろせないので
成年後見人制度の説明をして
書士を紹介した


そして奥さんは
田舎に帰りたいということになり
田舎の親戚にも連絡を取った
田舎の親せきの受け入れは良好で
そちらで施設を探してくれるという
話も出ている


今日は成年後見が成立するまでの数か月
妻が生活できる施設を見てきたという
自分も入りたいというほ
どすてきな所だったと話していた
奥さんがMさんを忘れてしまう日も
そう遠くはない
田舎がいいのか
Mさんとスープの冷めない距離の
施設がいいのか
私にもわからない


この夫婦のように
すぐに有料老人ホームに入れるのは
毎月30万円の利用料を払える人
入居金の数百万が払える人
お金があればどんな施設にも入れる
それが現実
私が言いたいのはそんなことではない


夫婦は30年間
つつましく一生懸命働いてきたという事実
たしかに子どもがいない分
お金はたまるのだろう
でもコツコツと
食べるものや着るものまで節約して
貯めて来たお金には変わりない
多くの夫婦はしりつぼみとなる
子どもの大学資金まで出して育てて
老後は年金でささやかな生活を送っている


晩年近くになって
Mさんは妻の認知症の発症をきっかけに
何かに気付いたのだろうう
これからは自分のためと
そして妻のためにお金を使います
と言っていた
Mさんは30年ともに働きづめだった妻に
感謝している
そして今は妻がしてほしいということを
してあげたいという


Mさんはやって来て
毎回奥さんの話をしては、泣く


夫婦、ふたりぼっち




※はなちゃんコーナー※


 2017年



 2019年


7月16日で14歳になりました!




夫婦、不思議な縁(えにし)♡

もんちっちのオーロラ


2012年3月4日
※過去記事より


オーロラ


もんちっちは40年以上前から
オーロラに魅せられています
最近は人気があって
ツアーでいく人もたくさんいるようです
もんちっちは60歳になったら行こうと
決めていました
自分の人生のエネルギーを
すっかり燃焼させて?
そのあとで自分の人生の締めくくりに
観に行こうと決めていました


オーロラと出会ったのは小学校低学年
小さな古びた市立図書館で見つけた
一冊の絵本でした
当時は詳しい研究もされていなかった
せいもあったのでしょう
まさにオーロラは
神秘のベールに包まれたままでした


オーロラが何たるかを知ってからも
自分の目で視たいという
夢は変わっていません
オーロラを観に行くために
30歳の時に30年満期の
積立保険に入りました
途中であきらめたりすることもなく
友人や知人がオーロラツアーに
行ってきたよと聞いても
ちょっぴりうらやましかったけど
もんちっちが行けるのは
60歳になったときと決めていました


21世紀には観れなくなるかも
しれないと聞いて
ちょっと焦ったこともあったけど
きっとオーロラも
待っていてくれるんじゃないか
って思ってます
何か月か?泊まり込みになるかも
しれないけど
それでももんちっちは
オーロラと出会えるその日まで
元気でいようと思っています



 


2019年4月22日
※過去記事より


オーロラ
カナダ イエローナイフへ


どこに旅行に行っても
写真を撮らないもんちっちですが
息子が撮っていたらしく拝借しました(笑)


夕方飛び立った飛行機は日付変更線を越え
間もなく朝に




やがて再び夜に
1日若返りました(笑)


1,2,3日目は湖畔のB&B




フィリピンの女性オーナーさんが経営し
湖のそばなので
ここからもオーロラが見えます


夜間は10時から3時まで
ベックスケンネルさんの
オーロラ鑑賞ツアーに参加します
(バスで郊外に移動しオーロラを待ちます)


ここで大きな過ちに気づきました
私たちが行ったときは
ちょうど満月の前後4日間でした
オーロラは月明りで
少し見えずらくなりました
そしてそのうち2日は曇って
雪が降りました


ここイエローナイフは
オーロラば見える確率が
非常に高いところのはずなのですが
見れないのも
珍しい経験なので、ま、いっか(笑)



息子の携帯が月明りでオーロラを拾いました





携帯で撮った写真なので撮れたのが奇跡ともいえます
(アイフォン12なら撮れるれると聞いたので
             次回は撮れるかな?)



オーロラが見えた瞬間
全ての人が「おお~」(Oh~!)と合唱


4泊目は少し郊外のB&B



オーナー不在で貸し切り状態でした
タクシーを呼んで
スーパーで買い物をしたり
市街のマックに行きました
野菜は入手しにくいためか
とても高価です
(日本のお野菜もいただくときは
ちゃんと感謝して食べようと思いました)


3日目の昼には、犬ぞりを体験しました
なんか痩せ気味の犬が多くて
重いもんちっちを引っ張ってもらうのが
かわいそうでした
暖冬で地肌もところどころ露出して
ここまで温暖化か、なんて思いました


4日目の昼は市内観光ツアーに参加
ダイヤモンド鉱山でかつては有名だった
イエローナイフ
しかしさすがにダイヤは買えず(笑)
博物館や議事堂を回りました


アイスロード(湖の氷の道)


オーロラツアーには参加しましたが
泊まったB&Bからも
ゆらゆらと揺れるオーロラが見えていました




翌日空港近くのホテルへ移動
最後の夜は街中のレストランで
バッファローのステーキをいただき
数時間寝て空港へ


イエローナイフは街中は明るいので
オーロラは見にくいですが
少し離れた郊外なら
ツアーに参加せずとも
ゆったりとマイペースで
オーロラが見れたことを反省


毎日日中は買い物に出かけていたので
街の雰囲気が少し感じられました
スーパの近くには一人で何かつぶやきながら
「携帯見せて」って近づいてくる中年の女性
統合失調かな?
そして空港には到着の時も出発の時もいた
思春期の?男の子
ひとりごとをつぶやきながら椅子に座っている
一日中いるのかな?
たぶん自閉症だけど
街の景色の中で、普通に暮らしています


最後の夜は空港近くの英国皇室も
利用したという古めのホテル
ホテル入り口にはシロクマ君


またね~!


あっという間の7日間
今回は長男とその彼女
長女ともんちっちの4人でした
30年かかったオーロラ鑑賞
待ったのは50年


小さいころ
どこへも連れて行ってあげられなかった
罪滅ぼしが少しはできたのかな?なんて
最初で最後の家族旅行になるかも 
なんて思いながら
次回はおひとりさまで
ホワイトホースに行く予定です


太陽さん
どうかいい風を地球に送ってくださいネ~♪





2020年3月30日 オーロラ
大塚さんお借りします




願えば叶う何事も♡

精神ひとりぼっち

2012年4月7日
※過去記事より


特効薬


もう40年以上も前の話
父が勤めていた病院の
一番奥にある窓に鉄格子がある病棟
そこを通るたび
柵のついた窓越しから
手を振る若いおばさんがいた
看護婦さんたちは
「はなちゃ~ん!バイバ~イ!」と言って
手を振り返していたのを見て
いつしか私も
「はなちゃ~ん、バイバ~イ!」と
声をかけるのが習慣になった
引っ越して通り道ではなくなってから
その後はなちゃんが
どうなったかは知らない


仕事柄、高齢者の
精神疾患の方の相談が多い
一人暮らし、生活保護、家族との疎遠
うつ病が、カゼのようなものって
言われるようになって
精神病に対する偏見が
減ってきているのだろうか


私のなかでは 
単なる「脳の器質的および機能的疾患」
内科の病気と比べると
考え方、感じ方の一部が
通常から逸脱するわけだから
言動や行動が突拍子もなく
精神科の知識がなければ
「異常」としか見えない



先日、交番から電話があり
下半身すっぽんぽんで
徘徊している女性を保護している
との連絡があり
同僚が迎えに行った
誰かはわかっていたので
ズボンを持って迎えに行った


かつて社会の第一線で活躍していた彼女
発病してからは働けず
兄弟はいるのだが
これまでさんざん呼び出されてきたせいか
一切のかかわりは持ちたくないと全面拒否
結婚はしていない
子どももいない
こんなケースをいくつも抱えている


いつも思うことがある
統合失調症や双極性障害などの
精神疾患の特効薬があったらと
糖尿病にインスリンがあるように
精神疾患にも特効薬ができないものだろうか


中国には3千万人以上の
統合失調症の患者がいる
精神疾患は人口比の数%と言われているから
日本にも最小でも100万人以上の患者がいる
ここ数十年で病院の建て替えがあって
病棟はきれいになった
でもそこが我が家になっている
患者がほとんどで
いったん入院したら
家族も会いに来なくなっているのが現実


病気に対する理解をして
誰もが自分自身や家族に
起こりうる問題として
精神科領域の病気も考えてほしいと
心から思う


一番辛くて、悲しい思いをしているのは
病気を抱えている「本人」であることを
忘れてはいけない


なぜ私がこんなことを書いたのかというと
ある臨床心理士のブログを
読ませていただいて
涙が止まらなかったから
みんな生きているんだ
助け合って支えあって生きているんだって
感じたから



鉄格子の窓から手を振っていたはなちゃんは
今も元気でいるのだろうか





2012年6月26日
※過去記事より



ひとりぼっち


人間やめたくなるくらい落ち込んだり
どこへも持っていけそうにない
重すぎる怒りや
誰にもわかってもらえないような 
悲しみを抱えてしまうと
見知らぬ人の さりげない一言が
たまらなく心にしみることがある


つまらないことを言ってしまったと 
後悔したり
その一言で 
大切な人が傷ついたと知ったとき
自分は貝になりたいと思った


頑張っても頑張っても 
できないことがあると
世界中の誰よりも 
自分が無能でみじめな存在だと感じた


叶わない相手に恋をして
最初からダメだとわかっているのに
それでも独りよがりの
片思いを通した思春期
結局は「愛される」という
安易な道を選んで生きてきた


365日生きていて
幸せを感じるのは1日あればいい
そう思って残りの364日を
その1日のために生きている


北国の根雪が 
春にはやがて溶けていくように
梅雨の雨が 
盛夏の太陽を運んでくるように
いつかきっと
明るい灯にたどり着くことができる
だから人は生きていく
だから人は頑張れるんだ


皆が一人ぼっちでないように
君も決してひとりなんかではないからと
自分に言い聞かせて また生きていく





※はなちゃんコーナー※


こんにちは~

2016年ごろ 8歳? 





2019年ごろ 11歳


またね~!




私は貝になりたい♡