死後の世界はある?ない?
2024年4月10日 火曜日
”死後に霊ないしそれに類するものが
行き着く先が霊界
精神の世界、非物質世界などの宗教概念で
あの世、後世、死後世ともいう
伝統的な宗教の中には
死者が存命中にこの世で行った
善悪の行いや信仰心などに応じて
行き先が天国と地獄に
分かれるとするものもある
また霊界は階層状の世界であり
魂の状態に応じて
ふさわしい層に行くとも言われている
つまりいいことをして生きた人は天国?へ
悪行(窃盗、姦淫、殺人、詐欺など聖書の
十戒にあたるような悪行)をした人は
地獄へ落ちる”
※ウィキペディアより引用
「死後の世界」の歴史
宗教を持つ人にとっては「あり」であり
自然科学を崇拝する人にとっては「ない」
ことが多い
(死んだらただの物体になり塵となる)
6000年以上前の古代エジプトの時代の
ヘセプーチ王の棺に
死者の書が描かれている
古代のエジプト人たちは霊魂は死後
「バー」という鳥の姿になって
肉体からあの世に飛び立ち
楽園アアルで永遠の生を送ると
信じられた
古代ギリシャの哲学者プラトンは
霊界が存在していると述べ
あの世の様子についても語った
不可知論的には
(ものごとの本質は我々には知り得ず
認識することが不可能であるとする
立場のこと)
あるにしてもないにしても
人間の認識能力では
知ることはできないと考える
インドの仏陀は、死後の世界が
あるともないとも語っていない
17世紀から18世紀を生きた
エマヌエル・スヴェーデンボルグは
「霊界日記」を記した
18世紀にヨーロッパで唯物論 という
考え方が広がったが
唯物論では物質以外は存在しないと
考えるので、死後に霊が残るとは考えず
霊界の存在は想定しなかった
1847年には米国のA・デヴィスが
『自然の原理』という本を出版し
霊界の仕組みを説いている
1857年にはフランス人A・カルデックが
霊の生まれ変わりや死後の世界について
記した『霊の書』を出版している
1920年代にはイギリスのM・バーバネルが
霊媒役となり、「シルバーバーチの霊訓」を
伝えている
日本では大正から昭和期に
宗教大本を立ち上げた出口王仁三郎が
入神状態で霊界の諸層について語り
『霊界物語』をまとめた
その宗教大本から独立した浅野和三郎は
「心霊科学研究会」などの「霊界」を
探求・研究する組織を創設し
「日本の心霊主義運動の父」と呼ばれている
昭和から平成にかけては丹波哲郎が霊界に
関する著書を多数出版した(映画化も)
2005年ごろには江原啓之や美輪明宏が
テレビ番組オーラの泉に出演して
人々のスピリチュアリズムや霊界に
対する関心も高まった
19世紀から20世紀になると
自然科学に期待を寄せる人々が増え
霊界のことまでも自然科学的に立証しよう
とする試みも欧米諸国などで行われた
(量子力学など)
肉体が滅んだ後でも霊、精神(幽体)
意識(体)と呼ばれる非物質的な存在が
滅びずに残り、それらが暮らす
または魂の故郷へ帰る世界が
「死後の世界」と思う人も少なくない
(宗教では天国、地獄、浄土、黄泉
などの言葉で呼ぶ)
霊界とは
・超自然的な人間同士のつながりで
媒介としての世界であり、何らかの
未知の力により霊界を通じて
他者と交信する
(例:イタコの口寄せ)
・現実世界(この世)と重なるようにして
表裏一体で生霊や死霊、守護霊が
あると信じられている
宗教や思想での「死後の世界」
・ユダヤ教
信仰の土台となっている旧約聖書には
霊界の記述はない
ユダヤ国民には
死後の生活という思想はなかった
イエスの死後、新興勢力のキリスト教
との交流で、救世主が降臨した後
すべての死者が墓から蘇り(ゾンビか?)
神が各人の功績に応じて審判し
「正しき者には祝福すると
天国の永遠の生命を与え、その他の者には
地獄の刑罰を与える」という思想が芽生えた
・キリスト教
信仰の土台となっている新約聖書には
イエス・キリストの言葉として
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う
者が皆、天の国に入るわけではない
わたしの天の父の御心を行う者
だけが入るのである」
「もし、右の目があなたをつまずかせるなら
えぐり出して捨ててしまいなさい
体の一部がなくなっても、全身が地獄に
投げ込まれない方がましである」と
天国と地獄が存在することを明言している
カトリック教会では、犯した罪が小さい
者が行く霊界として、天国と地獄の中間
である「煉獄(れんごく)」がある
煉獄の苦しみは永遠ではなく、浄められ
後には天国に行くとされている
・イスラム教
ユダヤ教、キリスト教と同様に天国
(楽園)と地獄がある
天国は「永遠の少年たちが間を巡り
高坏や水差し、汲立の飲物盃をささげ
後の障を残さず、泥酔することもない
果実は選ぶに任せ、種々の鳥の肉は
好みのまま
大きい輝くまなざしの美しい乙女は
丁度秘蔵の真珠のよう
これらは行いに対する報奨である」と
記されている
地獄については「焼けけ焦がすような風と
煮え立つ湯の中、黒煙の影に涼しくもなく
爽やかでもない
生前裕福で大罪を敢て犯していた人が行く」
と記されている
生前の行いが霊界での位置を明確に決定する
・ヒンドゥー教
輪廻が教義の根幹となっている
信心と業(カルマ)によって生まれ変わる
死後、閻魔(ヤマ神)が裁判長となり
生まれ変わり先が決まる
霊界とは生まれ変わり先が決まるまでの
一時的な待合室のような所にすぎない
利己心、淫欲、暴力などのカルマがある者は
以前よりも苦悩の多い存在に生まれ変わり
放っておくと生まれ変わりが無限に続く
瞑想や苦行によって解脱(輪廻からの脱出)
に達した者のみ生まれ変わりがなくなる
解脱者は、インドラ、シヴァ、ヴィシュヌ
クリシュナ、ブラフマンという名の神が臨在
する「五つの天国」のいずれかに行く
・スピリチュアリズム
霊的な思想として外せないのが
A・デイヴィスは、1847年に
出版した『自然の原理』で
霊界、霊界の構造や死後の世界について解説
し「スピリチュアリズムのバイブル」
とも呼ばれている
淡路島 世界平和観音像
八百万の神の住む日本
仏教とのかかわりはどうなのだろうか?
本来の仏教の目指したことは
①平等の思想であること
②迷信やドグマを否定すること
※ドグマ:宗教・宗派が信奉する
独特の教義・教理
③人間対人間という現実で倫理を説くこと
④「自帰依」「法帰依」として
自己と法に基づいていること
⑤釈尊自身が「私は人間である」と言って
いたような人間主義であること
要するに生きている人間が
どのように生きていったらいいかを
説いている宗教である
西洋のように神としての存在ではなく
生きている人間のための
人間による教えである
本来の釈迦の教えとを反映している
確証はないが
五戒というのがある
・(人、動物を)殺さない
・盗みをしない
・不道徳な性行為をしない
・嘘をつかない
・酒、薬物など
酔わせる、酩酊させるものを避ける
五戒とは禁止事項ではなく
これを破ったことで制裁を受けるのでははく
これを破ることで生じる力はカルマとして
死後の世界への影響をおよぼすという
仏教においては殺傷を行うと
死後は地獄界における再生をまねき
さらにその対象が僧であった場合には
その来世はより厳しい環境で
より長い年月となるという
同様に姦通はその相手が未婚か既婚かにより
娼婦や地獄界で次は再生することとなる
仏教の五戒は菩提への道を導き
心と人格を発達させることを意図している
仏教の世界観は、インドの世界観である
輪廻と解脱の考えに基づいている
人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で
終わりなく苦しむことになる
その苦しみから抜け出すことが解脱であり
修行により解脱を目指すことが
初期仏教の目的とされている
またこの思想はインド哲学であり
あくまでインド仏教としての考えである
仏教では、迷いの世界から解脱しない限り
無限である前世と、生前の業、そして臨終の
心の状態によって、次の転生先へと輪廻する
「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道
大乗仏教ではこれに「修羅」を加えた
六道の転生先に生まれ変わるという
生前に良い行いを続け功徳を積めば
次の輪廻では良き境遇に生まれ変わり
悪業を積めば苦しい境遇に生まれ変わる
人には「死への恐怖」があり
生きることは苦しみそのものであった
何千年もかけて哲学(思想)や
宗教の中で
死後の世界が作られてきたことを
あらためて認識した
どれを信じるかは一人一人の価値観
ではあるが
すべての宗教が「善行」を成せと
言っていること
そして人の歴史の中に
あまりに悪行がはびこっていたから
宗教が生まれ、戒めが始まったのだろう
そうでなければ、本来宗教などは
必要のないものだ
人が皆、善人なら警察はいらない(笑)
未だに人殺しをし合っている人たちは
宗教からいったい何を
学んでいるのだろうか
もんちっちの信じていた「性善説」は
砕けつつある(笑)
人はいくら学んでも足りない
だから学ぶ
もんちっちがもし宗教を学ぶとしたら
生きた人を救うための「仏教」のような
気がするが、宗教のみならず
何から学んでもいいように思う
人は「善行」を成すたびに
精神性が成長するものだから
死後の世界は、あってもなくてもいい
たとえあったとしても
人間の認知能力には及ばないものがある
もんちっちは、アインスタイと同じ結論
「わからない」である
幸い?行ったこともないし
帰って来てインタビューされた人も
いない
もしあるとしても
決して帰って来ることが
できないところであることには
変わりない
生きているうちに
思い残すことなく
生きたいだけ生きよう
よけいなことは何も考えずに♡