夫のこと

※どうしてもラインに載せたくて
 (7月28日付の投稿にしたくて)
再掲させていただきます。
日付の変更だけはできないようなので
投稿日(本日)の新規投稿になって
しまうので、以前この記事を読んで
いただいた方には、大変ご迷惑を
おかけしますが、無視(スルー)して
いただきますようお願い申し上げます。
わがままをお許しいただけますと
幸いです。 
本日の記事は18時、予約投稿の
予定です。
何卒よろしくお願いいたします。
お詫びとお願いまで、もんちっち
2024年2月6日


2023年7月28日


破天荒な人生


人の人生の出来事は
全ての人に順番に来るものではない
しかし大体は同じような年代で
悲しみはやってくる
私はその時間の流れが他の人より
たまたま早かった
親を知らず生まれ
育ての両親の離婚によって母を失い
父の会社の倒産で
一夜にしてホームレスになった
結婚は三度も失敗した


後で気づいたが
毎回同じようにメンタルが弱い人を
自分が選んでいたから 
失敗するのは無理もなかった


長男が2歳手前で病気で死にかけて
次女は25歳で自殺未遂で
生死をさまよった
子どもを失うことの境界線の
親の悲しみや苦しみを
その一歩手前で知った


幼いころから私を虐待していた父であっても
私の子どもたち全員で病室から見送った


そして配偶者の死
私は60歳手前で 
一生かけて経験する
人生の出来事のほぼすべてを
終えてしまった


私の残りの人生はあと5年くらいかと思う
いやそんなにないかも


しかし恥の多い反省だらけの人生だった
反省はしても 後悔はしたくない
たとえそれが 
破天荒な人生であったとしても



2023年6月29日


夫の死


封印されていた夫の記憶が
7年近く経った今
やっと振り返ることが
許されたような気がしています


口にさえしなかったことを
やっと綴る決心ができました


2016年 12月12日
夫は亡くなりました


発見されたのは12月14日
(タイムラグは家庭内別居の状態だったため)
自宅2階のトイレの床に座った状態で
冷たくなっていました


出かけた切り連絡が数日ないことが気になり
2階の寝室にいなかったので 
2階のトイレを確認して見つけました


炭を密室で焚いたための
一酸化炭素中毒でした
自殺でした


それから救急車や警察や子どもらに
連絡したような気がします
何が何だかわからないまま 
時間が過ぎたような気がします


彼とはお互い3回目の結婚でした
MSNで知り合いました
知り合ったころ彼は失業中で
ウツのため?一歩も外に出られずにいました
それから居酒屋に誘ったり 
たびたび会ううようになって
意気投合して一緒に暮らすことにしました


子ども5人との7人暮らしが始まりました
彼はいつか立ち直れるだろうと
私は思っていました


半年たってタクシードライバーになりました
日勤で月に12万円くらいしか稼げず
私の収入を合わせても生活していくには 
厳しすぎました


シングルマザーのあいだに
ちまちま貯めた数百万円も 
発覚した彼の借金や滞納していた家賃や
その他の支払いで消えてしまいました
なんてかわいそうな生活をしてきたのかと
当時の私には同情しかありませんでした


彼の仕事も夜勤に変わり
しばらくの間は順調に見えました
当時二人合わせて
年収1000万円以上はありました


長女が独立し
大学病院で働くようになりました
次女も友達のところを
転々として暮らしていました
彼の長男は
横浜のおばさんのところへ行きました
彼の次男は
おばあちゃんのところに行きました
一人二人とと欠けていき
そして私の長男だけが家に残りました
一家離散です(家庭崩壊)


夫は仕事に行ったり休んだりと
一緒にいた15年のうち4分の1は
休職していたように思います
私はなおいっそうピッチを上げて
働かなくてはいけませんでした
お金のためにできもしない
不本意な仕事に就いたこともあります
むろん長持ちはしませんでしたが


バブルのころに羽振りよく暮らしていた
習慣が抜けなかったのか
彼なりに努力していたと思いますが
お小遣いも月に7万円では足りないというし
勝手に新車を買ってきたりと
金銭管理をしていた私には負担が大きすぎました


何度も死ねば楽になるのかなあと思いました
私がなんとか頑張ってこれたのは
長男がずっと一緒にいてくれたからだと
今はわかります
毎月5万円ずつお金を家に入れてくれてました
「今月は余裕あるから一万足しとくわ」と
そのさりげない子供の気持ちが
どれだけありがたかったことか


夫の晩年は悲惨でした
部屋にこもってお酒を隠し飲みするようになり
たまに仕事に行っては自爆事故を起こしたり
「これから富士の樹海に行きます」と
何度もメールが来たりの繰り返しでした


それでも何とかしなければと
以前から知り合いのドクターがやっている
メンタルクリニックに同伴しました


その時ドクターが「お酒やめられますか?」
と聞いたとき
「いやタバコはやめても
 酒だけはやめられません」
と言ったのです
医師は私の顔を見て 
一瞬眉を上げました
(この意味わかるよねとのアイコンタクト)
この時私はすべてに納得がいきました


私が彼と知り合ったころからの出来事が
頭の中で猛スピードで逆走していきました
私が知り合ったころには  
すでに症状が出ていたのです
夫はうつ病ではなく
アルコール依存症
そしてその状態の脳が
うつ状態を生じてきたという事実
うつ病ではなかった


高卒後から飲酒をはじめ40年が経っていました
脳はもう限界だったのです


それから秋が終わりにさしかかった頃
夫は完全に引きこもるようになり
隠れてお酒を飲み続けました
夫が留守の時に部屋に入ると
4リットルの焼酎のペットボトルが
ベッドの下にごろごろしていました


私にできることはもうありませんでした
救えない命もある
そんな思いだけが残りました


夫の死後一か月を過ぎたころ 
銀行から家に電話がかかってきて
カードローンの借金が見つかりました
買った車の残債もカードローンも
裁判所に財産放棄の申請をして
事なきを得ました


私名義で借り続けた生活費の借金も 
(サラ金や自分の生命保険担保で借りたお金)
数百万になっていました
途方に暮れていたとき
たまたま夫の会社の共済からお金がおりて
なんとかすべて返すことができました
唯一の救いでした


夫が亡くなる一週間前
立ち直ってほしい一心で
私は最後の手段に訴えました
リビングのテーブルの上に
離婚届を置きました


それが彼の死の決断につながるなど
そのときは思いもしませんでした
結果として私は夫を追い込んで
殺してしまったのかもしれません


アルコールは薬物です
自分が気づかない間に
脳はむしばまれていきます
そして傷ついた脳は
一生もとに戻ることはありません
そして最後にはうつ状態を招いていくのです


救えなかった命
本当にごめんなさい 


7年経った今もなお
私はまだ完全には立ち直っていません


でもいつかは自分自身をも
許してあげなければと思っています


夫の死後 
離婚をしました
私は妻らしいことなにひとつできなかったから
そして子どもたちにも心配かけて
辛い思いをさせてしまった


15年ものあいだ本当にごめんなさい
病を抱えた人を捨てることはできなかった


やっと話せました・・・夫のこと




行方不明の時間



人間には
行方不明の時間が必要です
なぜかはわからないけれど
そんなふうに囁(ささや)くものがあるのです


三十分であれ 一時間であれ
ポワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒(ふらち)なことをいたすにしろ


遠野物語の寒戸(さむと)の婆のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です


所在 所業 時間帯
日々アリバイを作るいわれもないのに
着信音が鳴れば
ただちに携帯を取る
道を歩いているときも
バスや電車の中でさえ
〈すぐに戻れ〉や〈今 どこ?〉に
答えるために


遭難のとき助かる率は高いだろうが
電池が切れていたり圏外であったりすれば
絶望は更に深まるだろう


シャツ一枚打ち振るよりも
私は家に居てさえ
ときどき行方不明になる


ベルが鳴っても出ない
電話が鳴っても出ない
今は居ないのです


目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
無気味でもあり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸いこまれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け


さすれば
もはや完全なる行方不明


残された一つの愉しみでもあって
その折は
あらゆる約束ごとも
すべては
チャラよ


(茨木のり子詩集より)




生まれ変わったら
お酒のない世界で暮らしてね♡

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