史実は誰のために
2023年10月11日
昨日の記事にも書いたが
「歴史的事件に関しても
国によって解釈が違う
それは、国によって立場が違うから
立場が違えば、当然視点も違う
これは、政治絡みの深刻な話に限らない
視点が違うから、見えていることが違い
思い出すことが違う」
当然のことではある
シンドラーのリスト、憶えているだろうか
オーストラリア人トマス・キニーリーは
「シンドラーのリスト」を書いた作家
原題は、『シンドラーの箱船』(1983年)
トマス・キニーリー
この作品はスティーブンスピルバーグ監督で
映画化された(1994年)
スティブンスピルバーグ
”第二次世界大戦時に、ドイツによるユダヤ人の
組織的大量虐殺(ホロコースト)が
東欧のドイツ占領地で進む中
ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが
1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を
自身が経営する軍需工場に、必要な生産力
だという名目で、絶滅収容所送りを阻止し
その命を救った
実話。ホロコーストに関する映画の代表的作品。”
(ウィキペディアより引用)
このシンドラーとはどんな人だったのだろうか
本物のシンドラーについて調べてみた
オスカー・シンドラー(1908~2074)
父親は農耕機械の工場を経営する
比較的裕福な家で生まれ育った。
一家の信仰はカトリックだったが
シンドラー自身は宗教に関心がなく
カトリックの影響は
ほとんど受けることはなかった。
また学業も不振で退学になったこともある。
その後裕福な農場経営者の娘だった
エミーリエと結婚するが子供はできず
シンドラーの父の秘書を愛人にして
彼女との間に私生児2人を儲けている。
シンドラーは、琺瑯(ホーロー)容器工場を
買い取り、闇商売で資産を拡大し
急激な成長を遂げた。
800人近い労働者が働き
うちユダヤ人は370人いた。
シンドラーは快楽主義に取りつかれた遊び人で
プレイボーイの生活を楽しみ
金銭を湯水のように使っていた。
しかしナチス党政権に対する不信感が芽生え始める。
無力なユダヤ人住民たちに対する
不当な弾圧への抵抗だった。
やがてできる限り多くのユダヤ人を救済したい
という願望の下
最後には全財産をこの目的のために投じて
自らの生命まで賭けようとした。
彼の工場が“軍需工場”ということで
ポーランド占領のドイツ軍司令部からも
特別の格付けを承認されていた。
そのため親衛隊の監督下にあった
ユダヤ人労働者が必要であると要求できた。
雇用者が絶滅収容所へ移送される危険が
せまった時にも特例措置を使った。
シンドラーは、規則違反やユダヤ人に対する
優遇の嫌疑をかけられ、たびたびゲシュタポから
事情聴取を受けた。
こうした事実をシンドラー自身も
隠そうとはしなかった。
映画シンドラーのリストより
残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉が
彼の飲み仲間でもあったことから
彼の工場にユダヤ人労働者のための
小屋を建てさせてほしいと説得した。
この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に
比較的快適な生活条件を提供し
貧弱な栄養状態を補ってやることが
できるようになった。
食糧はシンドラーがすべて闇の市場で調達した。
しかし1944年末、ここにいた20,000人以上の
ユダヤ人が絶滅収容所に移送された。
女性強制収容所
シンドラーは、ドイツ軍の司令官から
チェコで新たに手に入れた工場で
「軍需物資の生産」を続け
そのための労働者を連れていくという
許可を得た。
その労働力には、プワシュフの収容所から
総数で800人、そのうち700人がユダヤ人
300人が女性だった。
シンドラーは、グロース・ローゼンの収容所
から人々を助け出しに駆けつけ
彼らを助け出すことに成功した。
シンドラーが、ユダヤ人1人当たり1日につき
ゲシュタポに7マルク支払うことを約束し
彼の秘書がアウシュヴィッツで
女性たちを更に移送する交渉を行った。
シンドラー夫妻は、アウシュヴィッツ強制収容所
からさらに120人のユダヤ人を救出した。
アウシュビッツ強制収容所
彼の労働者たちの誰一人として不自然な死を
遂げた者もなく、絶滅収容所に
送られた者もいない。
戦争の終盤、シンドラーは、ドイツに移ったが
その際、1ペニヒすら持っていなかったという。
シンドラーがこの救出に使ったお金は
現在の100万ユーロと言われている(証拠あり)
戦後、アルゼンチンでの農場経営や貿易商の
仕事をしたが、不調で帰国。
ドイツでは、セメント工場も倒産した。
そんなシンドラーの噂は彼が救った
ユダヤ人にも伝わる。
彼らは、シンドラーをイスラエルに招いた。
その後一年の半分ずつを
ドイツとエルサレムで過ごした。
そして1974年に
ドイツのヒルデスハイムで亡くなる。
彼の墓は彼自身の希望で
エルサレムの
ローマ・カトリックの教会墓地にある。
シンドラーの墓
しかし時とともにシンドラーの事績は
ドイツやポーランドでも
次第に忘れ去られていった。
彼の名が一般にも広く知られるようになったのは
1982年にオーストラリアの
トーマス・キニーリーが著した
ノンフィクション小説『シンドラーの箱船』が
ベストセラーとなったこと
そしてこれをスティーヴン・スピルバーグ監督が
映画化した1993年の『シンドラーのリスト』が
世界的な興行成功を収めたことによる。
シンドラーは66歳でこの世を去ったが
妻エミーリエは
93歳でアルゼンチンから
ドイツに戻って亡くなっている。
エミリーの墓標には
「一人の人間を救う者は、全世界を救う」
(Wer einen Menschen rettet,
rettet die Ganze Welt.)と
刻まれている。
1945年5月8日、シンドラーの下にあった
ユダヤ人たちから、一つの指輪が贈られた。
この指輪は、シンドラーに命を救われた
ユダヤ人たちが
感謝のしるしに、彼らが唯一持っていた
本物の金歯から作ったものである。
「一人の人間を救う者は世界を救う」
この言葉が贈り物の指輪に刻まれていた。
今でいうところの、どーしょーもない人が
宗教からではなく、ある日目覚めて
人殺したちから、人を救う人になる
杜子春のような人だが
自分が本当に困ったときには
助けた人たちに救われた
当時のドイツでは非国民
しかし戦後はヒーロー
時間とともに忘れ去られ
また見つけた人がほじくり起こす
歴史上の偉業をなした人は
たいていは悪いことしか残らないそうだ
例えば徳川の「お犬様」の将軍は
犬を人間以上とした「おバカな殿様」だが
実はそのことで、犬猫を殺さないことが
人間をも簡単に殺さない習慣へと
変わっていった
つまり、おバカな殿様ではなく
先を見るお利口な殿様だったと言える
まったくもって歴史というのは
見る人の見方によって
全く違って見えるものである
どんな偉業を成しえても
いつかは忘れ去られる
そしてその時代を生きる人たちの
考え方によって
また勝手に物語が作られていく
でも、それでいいんだよね
今生きる人の力になれば
きっと死んでいった偉人たちも
本望だろう
この映画を一度見たら、心が重くなる
二度見たら、トラウマになる
三度見たら、自分のすべきことが見えてくる
(もんちっちの感想)
戦争がいけないことを
いったいいつになったら気づくんだ
人間は♡